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それからしばらく、彼女との生活が始まった。
彼女の手伝いをしたり、彼女のかわりにアズサくんの面倒を見たり。
いわゆる人並みの生活をしていた。こんな生活は久しぶりだ。
そんな生活を続けるのが怖かった。そのぬるま湯のような生活を続けていれば、私の火は消
えてしまうのではないのか、と。
そう感じるのと同時にそこに、確かに安らぎを感じていた。
私は考えないようにしていた。答えを出すことから逃げていた。復讐と新たな生活。私はど
ちらも選べなかった……。
―――けれど。
「―――っ!?」
ビクリと、私の体が硬直する。
「? どうしたんだい? りんご落ちたよ?」
私の心配して顔を覗き込んでくる果物屋のおじさん。私はそれに応えることもできなかった。
視界が定まらない。体中から汗が吹き出し、体は小刻みに震えている。
その理由は単純明解。『ヤツ』がこの近くまで来ている……。ヤツも私を感じ取ってるに違
いない。もうすぐここにやってくる。そう、―――死神が。
気がつけば私は走っていた。がむしゃらに。息を切らせて。全速で彼女の家まで走った。
それほどの全力疾走だったのにも関わらず――否、疾走などと格好のいいものではない。私
の速度は常人以下の速度程度しか出ていなく、つまづいてばかりの見苦しいものだった。彼女
の家が遠い。いつから私の四肢はこんな風になってしまったのだ? わかっている。愚問だ。
それでもなんとか彼女の家まで辿りつき、転がるように家の中に飛び込む。
彼女はすぐに異常に気づいて、
「――ミリナっ!? ど、どうしたのっ!?」
慌てて近づいてくる。私はそれを無視して自身の刀を取る。
「何があったの!?」
こんな私など見たことのない彼女は混乱している。当然だ。しかし、私は彼女に何の説明も
せずに、
「アズサくんを連れて、この町から離れて! すぐに!!」
それだけ叫ぶとまた外に出た。
家の方から彼女の声が聞こえてきたが、私は止まらなかった。
戻ってきた大通りはすでに騒ぎになっていた。すでにヤツが町の外に現れたらしい。男達が
口々に「西の門の方から――」「警備兵は西門――」「西へ―――」と叫んでいる。
私もすぐに西へと走る。
そこでふと気がつく。先ほどから絶え間なく聞こえてくる金属音。かちゃかちゃと。私をず
っと追いかけるように、すぐ近くで―――。
何の音だろう、と思った瞬間には答えがわかった。音源はすぐ自分の手元。私の刀『ソウル
イーター』が鳴っているのだ。
こんなことは初めてだ。一体なんだ?―――と思ったがすぐにわかった。なんてことはない。
そうだ、自分の震えが刀を鳴らしているだけだ。
震え? そうだ。私は震えている。何故? 簡単。私は恐怖している。
死神のツルギが怖い。
あの男とは何度も戦ってきた。勝利は一度としてないが、命からがら逃げ延び、あるいは見
逃され。だが、そのいずれも恐怖は感じたことがなかった。
この恐怖の原因は――すぐに思いつく。今の自分。ヤツへの憎悪の薄れた自分。ろくに戦う
ことのできない四肢。
この状態の自分がやつの前に出れば、それこそ一瞬で自分はただの肉片へと化すだろう。
何をやっているのだ? こんな常人レベルでしか走れない自分がヤツの前に立って何ができ
る? 勝てるのか?
無理だ。現状では勝てない。今までだって、勝てないと判断したら、戦いを避けることだっ
てあったのだ。だから今回もそうすべきだ。
しかし、わかっている。今、このまま逃げれば多分私は二度とヤツの前には立てない。ここ
で逃げることの意味を私の体は、魂は理解している。
気がつけば私は走るのをやめ、歩くことすらもやめて、その場に立ち尽くしていた。
一歩も動けない。前に進むことも、後ろに下がることも。
バカな。思い出せミリナ。そうだ、前に進むんだ。いや、ダメだ。無駄死にすることはでき
ない。今やつと戦うことは理に適ってない。――理に適う? そんなことは過去、一度だって
なかったはずだ。前に出ろ。いや、下がれ。
うるさい。うるさい、うるさいっ!!!
どうすればいい? 死神のツルギはすぐそこにいるのにっ!!!
自分の目尻から、涙がこぼれそうになる。情けないっ!!!
しかし、次の瞬間全ての悩みが消し飛ぶ。
うつむいていた自分。見えているのは自分の足元だけだったが、その瞬間はっきりわかった。
爆音の後、壁の吹き飛ぶ音。男達の悲鳴。そして、ヤツの気配が。
頭のてっぺんから、足のつま先まで。
「久しいな、娘。決着を着けに来たぞ」
顔を上げてヤツを直視する。
低い、地の底から響いてくるようなやつの声が私の体を叩きつける。その瞬間、震えは消え
ていた。涙なんかとうに乾いている。私の体の中心にある炉に火が灯る。さび付いたと思って
いた機関が唸りをあげて起動する。ぶら下がっていた四肢は急激に力を取り戻し、私の奥底か
らは魔力が溢れ出てくる。
あぁ、なんだ。私がなんだかんだと悩んでも、私の体は、炉は、毛の一本一本、足の先まで
全てが臨戦態勢じゃないか。
…――私の全てが、ヤツを殺せと騒いでいる。
そうか。そうなのだ。私の平穏な生活も、新しい道も、復讐への答えも。全てはこの男を殺
してからだ。他は知らない。前に進めない? 後ろに下がれない? そうさ。この男を殺さな
ければそれすらできない。
ならば簡単。
「久方ぶりですね、死神のツルギ。
……―――では、死んでください」
「フン。娘、おまえにそれができればな」
「極めて了解、です」
そうして、うだうだ悩んだ自身に蹴り飛ばすように、私はヤツに斬りかかるっ!
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